日本大空襲 松戸飛行場(松飛台)

今日は、終戦記念日も近いので話題をこちらにします。

 このブログの「金ヶ作史記」で旧陸軍松戸飛行場について触れたこともあり、そこの飛行第53戦隊に所属し、整備兵として帝都防衛に就いて敗戦を迎えた原田良次氏の著書「日本大空襲-本土制空基地隊員の日記-」を読んでいる。

 1973年に中央公論社から中央新書として日本大空襲(上)・(下)が出版されたが、現在は、合冊されて2019年7月にちくま書房から出版されている。

その記述の中に
「5月8日 薄曇 風つよし。
1135 P51 60機は千葉、茨城周辺の飛行場を攻撃。わが基地にも数機来襲。当隊も本土決戦までの機体温存の方針から、実動機は飛行場から遠く森や林の中に掩蔽してある。今日の敵小型機は、基地北端上空を、わがもの顔に悠々と低空飛行していたのには驚いた。この空にわが邀撃機一機もなし。」との記述がある。

 記述と敗戦後の写真の位置関係から考えると、五香善光寺側の森や林の方に機体と身を隠したように思われる。松戸飛行場のその北端上空(五香十字路周辺)を執拗に偵察旋回飛行していたようにも思える。

 なお、記述によると防空壕も対空火砲もなく兵隊が寝る地下壕があっただけだそうである。

 わたしは戦後生まれである。幼少期、親が拾ったものだろうか変なものがあって遊んだ記憶があるが、いまに思えば薬きょうであった。飛行場の周辺は流れ弾もあって危険であったろう。興味や関係(きっかけか?)がない若い方々にとっては、この本は記録であって理解していくのはわたし以上に難しかろう。

 当時の状況が、今の新型コロナウィルス渦における施策と被るものがあるが、言論の自由がなかった当時に比べれば幸いである。国政を預かる者は、言い訳ではなく希望を与えて欲しいものである。

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鮮魚街道 五香十字路界隈の空中写真(御立場発見)

 この写真は、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より提供してもらった1947年(昭和22年)の進駐米軍による五香十字路界隈の航空写真です。

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 今は、わずかに残っているだけの野馬除土手ですが、
 この写真では、野馬除土手沿いに続く旧道(鮮魚街道)がよくわかります。陸軍鉄道第二連隊の演習線が松戸飛行場跡まで引き込まれている痕跡や無蓋掩体壕*1の痕跡も散見できます。
 注目すべきは赤い円の部分。広い範囲を整地したような場所です。ここが戦時中に整地されて消えてしまった将軍お鹿狩りの御立場があった痕跡に思えるのですが、いかがでしょうか。いろいろな方からの聞き取りで御立場の位置は想定されていましたが、物証として進駐米軍の空撮写真に写し込まれていたのは発見です。本当に小山であったと思えます。

1. 敵の攻撃から守るためのかまぼこ型の施設を掩体壕(えんたいごう)または掩蔽壕(えんぺいごう)ともいうが、爆風を避ける土堤のみの無蓋掩体壕もある。旧松戸飛行場(逓信省中央航空機乗員養成所)につくられたのは無蓋掩体壕のように見える。ひとつでも残していれば、指定文化財(史跡)になったかも知れない。

鮮魚街道 日暮村界隈の空中写真

この写真は、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より提供してもらった1947年(昭和22年)の進駐米軍による日暮村界隈の空中写真*1である。旧帝国陸軍鉄道第二連隊の演習線らしき跡も見える。更にさかのぼって、明治13年陸地測量部の迅速測図(国土地理院謄本)の地図と重ね合わせて旧道の痕跡を緑の線で引いてみた。

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1. 空撮に関わったと思われる白井基地(現下総航空基地)は、1945.4に武蔵野カントリークラブの「藤ヶ谷コース」が陸軍飛行場となり、敗戦後、1945.8アメリカ陸軍航空軍(のち米国第5空軍)が進駐してきた。私の幼少期、隣に住む軍曹一家のジープに乗せられて、基地内のかまぼこ型建物のスーパーマーケットに連れて行かれたのだが、食料が豊富なのと景色が違って怖かった記憶しかない。車に乗るのも初めてならば、牛乳パックやケーキなどすべて見るのがはじめての体験であった。今でも乗り心地の良い高級車よりも4WDが自動車だと思っているフシがあるのは、そのせいかも知れない。

なお、現在の地図上でどうなっているのか。実は Google Map のスクリーンショットに過去の痕跡を貼り付けた説明資料もあるが、ブログでの公開は Google Map の禁止行為に該当する。Google 側からみて、非営利の個人で社会的に有用な活用か。フェアユースとしての許諾方法もあるそうだが、許されるか判断が難しそうだ。私も知的財産管理技能士の資格をとっているが、逆にきちんとやらなければならない。やっぱり面倒そうである。

SONY DSC-HX60V

 私が愛用している SONY DSC-HX60V (GPS機能付)の動作が悪くなってきたので、もう少し良いものに買い替えを考えているのですが、デジタルカメラ業界、スマホ流行りの所為もあるでしょうが、新製品にGPS機能つきが出てこないのは非常に残念です。使い道が広がらないことも非常に残念です。
 地元祖光院の檀家旅行を40ページの写真ブックとして編集作成したとき、GPS機能を利用して、旅先で撮った位置情報を地図上に貼り付けて載せたところ大好評でした。写真ブックにすれば、100年後も記録として残る確率が高くなるのでお寺にも寄贈してあります。
 地図情報との連携は楽しいです。
 カメラ業界さん、GPS機能つきデジタルカメラもご検討下さい。

千葉市立郷土博物館パネル展「将門と忠常 -千葉氏のルーツを探る-」

金ヶ作史記での時系列を理解していただくため、後北条方の勢力分布と徳川勢関東支配の分布を千葉市立郷土博物館のパネル展「将門と忠常-千葉氏のルーツを探る-」のパネルより引用させていただきます。
権力者の盛衰もあるが、負け組も含め、住民の暮らしはたいへんである*1。

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千葉市立郷土博物館では、このパネル展のブックレットを100円で販売(A5判・24ページ)しているそうです。

*1 NHK 堂々日本史第12巻 1998、KTC中央出版、p.131、「農民が兵士になる時」の千葉県松戸市平賀にある本土寺の史料・過去帳をもとにした記述で、戦国時代、毎年明けでの死亡率が高かったのは食糧難によるものだとしている。収穫しても手元に冬を越せるだけの食料が残らなかった。なので口減しもかねて雑兵になり戦に行かざるをえないとしている。現代でもある意味、一億総活躍社会といわれて老後も働かざるを得ないような仕組みになっているともいえる。

金ヶ作町会班組長の皆さま

金ヶ作町会班組長の皆さま 事務連絡

松戸市内におけるCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)の感染状況を踏まえ、8月の定例会(月例会)は中止とします。

今後の金ヶ作町会定例会予定日
開始時間:13時 場所:金ヶ作自治会館
令和2年
8月 9日(第2日曜日)<中止>
9月13日(第2日曜日)
10月11日(第2日曜日)
11月 8日(第2日曜日)
12月13日(第2日曜日)
令和3年
1月10日(第2日曜日)
2月14日(第2日曜日)
3月14日(第2日曜日)

 なお、3つの密にならないように配慮はしていますが、会場が広くないため、来館に際してはマスク着用でお願いします。また、入館時に消毒液を使うようお願いします。検温してから入館をお願いする場合もあります。加えて、できる限り不要な会話は避けて下さるようお願いします。感染症対策を創意工夫して乗り切りましょう。
                  令和2年7月14日 金ヶ作町会総務部

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金ヶ作町会からのお知らせ

金ヶ作町会会員各位

              お知らせ

10月18日(日)に予定しておりました第44回金ヶ作町会大運動会をCOVID-19 新型コロナウイルス感染症の状況を踏まえて中止とします。

                 令和2年7月12日
                 金ヶ作町会会長 小嶋 功
                 同  体育部長 金澤 宏

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松戸市岩瀬の古地名

松戸市の広報誌
 広報まつどNo.1675 7/1 のコラム「松戸の歴史解説」で、小野遺跡(奈良・平安時代)の話が載っていた。下総国府との関わりで岩瀬の古地名が石世(いわせ)とか?
 以前、「紙敷」も昔は神聖な役割を担っていたのではないかと平川南先生からの「かも知れない話」で調べてみたが地名由来の記録はなかった*1。こちらも何か発掘されないかなぁと願う。

1* それこそ憶測で思い浮かぶ漢字音は、神織(かみしき)や神式(かみしき)とか考えてしまう。平将門の上屋敷跡に由来するというような憶測もあるが、私たちは、記録と時代考証と冗長性を踏まえて推測を楽しまなければならないと考えます。その上での指摘や同好会への参加は大歓迎である。

金ヶ作史記について

ChoshiYaの金ヶ作歳時記にお立ち寄りいただき感謝申し上げます。

 この中のテーマのひとつ「金ヶ作史記」ですが、地域の歴史を知らない世代に向けて、少しでも郷土史を知ってもらおうと始めました。幸いなことに、わたしが歴史研究者ではない利点を生かして、私自身が知らないことを知る楽しみを共有してもらえれば幸いです。また、取り上げた郷土史に興味を感じていただくきっかけになればと願っています。

 個人的なことですが一点だけ

 歴史、とくに近現代史においては日本国内ですら歴史観でもめます。以前、国立公文書館のアジア歴史資料センター(略称アジ歴)という所で、システム入れ替えとデータ更新・公開の仕事をしました。当時のセンター長であった石井米雄先生*1とも親しくさせていただきましたが、「歴史認識の共有は難しくとも歴史事実は共有できる。」ということばを今でも大切にしています。

 ここに立ち寄られた歴史好きの方にもこのことばを贈りたいと思います。

*1 アジ歴のオフィスは、テナントビルに入居していて組織も含め非常にコンパクトであった。当時、石井米雄センター長は人間文化研究機構長もされていたが、機構組織の中では近寄り難い存在ではあるものの、アジ歴は狭すぎて密度が濃かったと思う。小生の人生にとって尊敬できる先生のひとりである。お亡くなりになられたのが非常に残念であった。新品のLet’s NOTEのOSをWin.8からWin.7にダウングレードして差し上げたとき1本いただいたが、あのパーカーコレクションはどうなったか。
 私がリタイヤしてから暫くあと、その機構からお呼びがかかって、参加機関の研究成果(リポジトリ)や研究者情報を統合して公開する仕事を引き受けたのも、亡くなられた石井米雄機構長を意識したからに他ならない。緩んだウエストを戻すため頑張って走り込みをしたのを覚えている。何者にも代えがたい先生であった。合掌