獲物を狙うカマキリ

猛暑日が続きます。熱中症も怖いですが、感染症はいつになったら収束するのでしょうか。本当は、暑気払いしたいですね。本日の写真は、ゴーヤの花に寄ってくる虫を狙っているのでしょうか。擬態?カマキリを見つけました。DSC07159.jpg

松戸市のごみに関する市民説明会

金ヶ作町会会員各位

 来年度末、(仮称)リサイクルプラザ(松戸市七右衛門新田316-4)の完成に向けて、「ごみに関する市民説明会」に参加してきました。

 場所:常盤平市民センターホール

 施設的な説明でいえば、老朽化した資源リサイクルセンター(松戸市松飛台286-15)の機能を(仮称)リサイクルプラザに移すとともに、分類によってそれぞれ別の施設に搬送していた木製、プラスチック製、金属製の各粗大ごみを一括して(仮称)リサイクルプラザで取り扱えるようにするということです。資源リサイクルセンターは、ごみ中継機能だけの施設になるとのことでした。
 東部支所や六実支所方面からの搬送が一番遠くなりますね。

 分別での大きな点は、可燃ごみと不燃ごみという呼称になること。

 これまで、資源ごみと称していた金属や小型家電などは不燃ごみの扱いです。陶磁器・ガラスなどと共に、粗大ごみも不燃ごみの扱いです。メリットとしては、大きさの条件つきながら粗大ごみ(一部)を集積所にだせること。陶磁器・ガラスなどを毎週不燃ごみの日にだせることです。

 一点、資源ごみもゴミ扱いか。

 松戸市の説明や配布資料からは、本来の目的である再資源化してごみの総量を減らすんだという意識が見えてこない。ゴミゴミって、ごみ処理のことばかり。資源ごみの名称がのこる「瓶・缶」と「紙・布類」などは、別々に隔週で回収するとのこと。そちらはリサイクル業者(軒下回収)に軸足を移すのだから、もっとリサイクルを強調して欲しいと、帰りがけ、町会長が担当者にお願いをしたところ。
                       報告 金ヶ作町会総務部
リサイクル通信特別号(参照)については、
https://www.city.matsudo.chiba.jp/kurashi/gomi_shinyou/recycle/risaikuru.html より、ダウンロードして下さい。

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日本大空襲 松戸飛行場(松飛台)

今日は、終戦記念日も近いので話題をこちらにします。

 このブログの「金ヶ作史記」で旧陸軍松戸飛行場について触れたこともあり、そこの飛行第53戦隊に所属し、整備兵として帝都防衛に就いて敗戦を迎えた原田良次氏の著書「日本大空襲-本土制空基地隊員の日記-」を読んでいる。

 1973年に中央公論社から中央新書として日本大空襲(上)・(下)が出版されたが、現在は、合冊されて2019年7月にちくま書房から出版されている。

その記述の中に
「5月8日 薄曇 風つよし。
1135 P51 60機は千葉、茨城周辺の飛行場を攻撃。わが基地にも数機来襲。当隊も本土決戦までの機体温存の方針から、実動機は飛行場から遠く森や林の中に掩蔽してある。今日の敵小型機は、基地北端上空を、わがもの顔に悠々と低空飛行していたのには驚いた。この空にわが邀撃機一機もなし。」との記述がある。

 記述と敗戦後の写真の位置関係から考えると、五香善光寺側の森や林の方に機体と身を隠したように思われる。松戸飛行場のその北端上空(五香十字路周辺)を執拗に偵察旋回飛行していたようにも思える。

 なお、記述によると防空壕も対空火砲もなく兵隊が寝る地下壕があっただけだそうである。

 わたしは戦後生まれである。幼少期、親が拾ったものだろうか変なものがあって遊んだ記憶があるが、いまに思えば薬きょうであった。飛行場の周辺は流れ弾もあって危険であったろう。興味や関係(きっかけか?)がない若い方々にとっては、この本は記録であって理解していくのはわたし以上に難しかろう。

 当時の状況が、今の新型コロナウィルス渦における施策と被るものがあるが、言論の自由がなかった当時に比べれば幸いである。国政を預かる者は、言い訳ではなく希望を与えて欲しいものである。

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鮮魚街道 五香十字路界隈の空中写真(御立場発見)

 この写真は、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より提供してもらった1947年(昭和22年)の進駐米軍による五香十字路界隈の航空写真です。

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 今は、わずかに残っているだけの野馬除土手ですが、
 この写真では、野馬除土手沿いに続く旧道(鮮魚街道)がよくわかります。陸軍鉄道第二連隊の演習線が松戸飛行場跡まで引き込まれている痕跡や無蓋掩体壕*1の痕跡も散見できます。
 注目すべきは赤い円の部分。広い範囲を整地したような場所です。ここが戦時中に整地されて消えてしまった将軍お鹿狩りの御立場があった痕跡に思えるのですが、いかがでしょうか。いろいろな方からの聞き取りで御立場の位置は想定されていましたが、物証として進駐米軍の空撮写真に写し込まれていたのは発見です。本当に小山であったと思えます。

1. 敵の攻撃から守るためのかまぼこ型の施設を掩体壕(えんたいごう)または掩蔽壕(えんぺいごう)ともいうが、爆風を避ける土堤のみの無蓋掩体壕もある。旧松戸飛行場(逓信省中央航空機乗員養成所)につくられたのは無蓋掩体壕のように見える。ひとつでも残していれば、指定文化財(史跡)になったかも知れない。

鮮魚街道 日暮村界隈の空中写真

この写真は、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より提供してもらった1947年(昭和22年)の進駐米軍による日暮村界隈の空中写真*1である。旧帝国陸軍鉄道第二連隊の演習線らしき跡も見える。更にさかのぼって、明治13年陸地測量部の迅速測図(国土地理院謄本)の地図と重ね合わせて旧道の痕跡を緑の線で引いてみた。

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1. 空撮に関わったと思われる白井基地(現下総航空基地)は、1945.4に武蔵野カントリークラブの「藤ヶ谷コース」が陸軍飛行場となり、敗戦後、1945.8アメリカ陸軍航空軍(のち米国第5空軍)が進駐してきた。私の幼少期、隣に住む軍曹一家のジープに乗せられて、基地内のかまぼこ型建物のスーパーマーケットに連れて行かれたのだが、食料が豊富なのと景色が違って怖かった記憶しかない。車に乗るのも初めてならば、牛乳パックやケーキなどすべて見るのがはじめての体験であった。今でも乗り心地の良い高級車よりも4WDが自動車だと思っているフシがあるのは、そのせいかも知れない。

なお、現在の地図上でどうなっているのか。実は Google Map のスクリーンショットに過去の痕跡を貼り付けた説明資料もあるが、ブログでの公開は Google Map の禁止行為に該当する。Google 側からみて、非営利の個人で社会的に有用な活用か。フェアユースとしての許諾方法もあるそうだが、許されるか判断が難しそうだ。私も知的財産管理技能士の資格をとっているが、逆にきちんとやらなければならない。やっぱり面倒そうである。

SONY DSC-HX60V

 私が愛用している SONY DSC-HX60V (GPS機能付)の動作が悪くなってきたので、もう少し良いものに買い替えを考えているのですが、デジタルカメラ業界、スマホ流行りの所為もあるでしょうが、新製品にGPS機能つきが出てこないのは非常に残念です。使い道が広がらないことも非常に残念です。
 地元祖光院の檀家旅行を40ページの写真ブックとして編集作成したとき、GPS機能を利用して、旅先で撮った位置情報を地図上に貼り付けて載せたところ大好評でした。写真ブックにすれば、100年後も記録として残る確率が高くなるのでお寺にも寄贈してあります。
 地図情報との連携は楽しいです。
 カメラ業界さん、GPS機能つきデジタルカメラもご検討下さい。

千葉市立郷土博物館パネル展「将門と忠常 -千葉氏のルーツを探る-」

金ヶ作史記での時系列を理解していただくため、後北条方の勢力分布と徳川勢関東支配の分布を千葉市立郷土博物館のパネル展「将門と忠常-千葉氏のルーツを探る-」のパネルより引用させていただきます。
権力者の盛衰もあるが、負け組も含め、住民の暮らしはたいへんである*1。

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千葉市立郷土博物館では、このパネル展のブックレットを100円で販売(A5判・24ページ)しているそうです。

*1 NHK 堂々日本史第12巻 1998、KTC中央出版、p.131、「農民が兵士になる時」の千葉県松戸市平賀にある本土寺の史料・過去帳をもとにした記述で、戦国時代、毎年明けでの死亡率が高かったのは食糧難によるものだとしている。収穫しても手元に冬を越せるだけの食料が残らなかった。なので口減しもかねて雑兵になり戦に行かざるをえないとしている。現代でもある意味、一億総活躍社会といわれて老後も働かざるを得ないような仕組みになっているともいえる。